【はじめに】
西洋建築史 近世では、次の4つのテーマ「ルネサンス建築」、「バロック建築」、「新古典主義建築」、「歴史主義建築」をご紹介したいと思います。
西洋建築史における近世は、人間中心主義と古代ローマの再生、この二つによって幕が切られます。
人間を価値体系の中心に据え、古代ローマ建築をモデルとして、そこに建築の理想・原理・規範を求めてローマ建築の建築言語で建築を構成する古典主義の系譜が、ルネサンス以降の近世のメイン・ストリームとなります。しかしこの系譜に、バロックのような反古典主義的色彩の強い様式も交錯して、建築の近世はダイナミックな顔を見せます。特に近世の最後19世紀には、ゴシックのような非古典系の様式も再生し、さらにはあらゆる過去の様式も再現され、歴史主義と呼ばれる様相を見せ、古典を軸にして来た近世が崩壊現象を見せるようになります。
その中で、このコンテンツでは18世紀中頃から以降、19世紀初頭までの時期を取り上げます。この時代は「新古典主義の時代」と呼ばれ、バロックからロココの時期にかけての正統的な古典主義から逸脱していった傾向への批判が見られました。また、啓蒙思想によりものごとを分析的・経験的・実証的に、いわば合理的にとらえる志向が強まりました。さらには古代ギリシア建築の遺構の実測を通じて、古代建築の研究が進んだことも背景にあげられます。
(引用元:学芸出版社『図説 建築の歴史』/美術出版社『カラー版 西洋建築様式史』)
(写真引用:ウィキペディア)
【古典の考古学的解釈―新古典主義建築Ⅰ】
ルネサンス以降、古代ローマ建築を理想としてきた芸術観は、ドイツの美学者J・J・ヴィンケルマン(1717~1768年)による「高貴なる単純さ」においてギリシア芸術はローマ芸術に勝るという主張によって大きく揺らぎはじめます。
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〇サント・ジュヌヴィエーヴ教会堂
(J=G・スフロ パリ 1757~1790年)
中央にドームを頂くギリシア十字の平面構成で、正面にはコリント式柱によるポーチが付きます。フランス革命後、教会堂から偉人の合祀霊廟(パンテオン)へと使途が変更されました。
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〇サント・ジュヌヴィエーヴ教会堂内
【古代建築の再発見】
古典の自由な解釈への批判および当時興隆してきた合理主義に立つ啓蒙思想から、より科学的な考古学研究によって正確な古代建築の実証が盛んとなっていきます。なかでもパルテノン神殿を始めとするギリシア建築遺構の実測記録が図集として出版されるなど、ギリシア建築の再発見が促されました。
思弁的かつ論理的に古代建築への理解を深めようとする姿勢も認められます。ヴィンケルマンによる著作出版と同じ年に、イエズス会の修道士M-A・ロージエ(1713~1769年)は『建築試論』第2版(1755年)を著します。その扉絵に描かれた4本の柱に梁と桁を架けた切妻屋根の原始的な小屋は、柱・梁を主体とする建物の原型を示しています。ロージエは建物の本質を表すこの小屋をギリシア建築の中に見いだし、ギリシア建築こそ建物の原型であると説きました。柱は屋根を支える構造材で、装飾のために使用されるべきではないと、合理的理解からのギリシア建築評価でした。
古代ローマ建築以降、建築工法を組積造のみに頼ってきた人々に架構式工法が新鮮に映ったことは確かでしょう。ロージエの構造の合理的理論を実践に移した作品がJ=G・スフロ(1713~1780年)によるサント=ジュヌヴィエーヴ教会堂です。
しかしながら考古学的実証は、ギリシア建築に限らず、古代ローマ建築にまで及びます。こうした古代ギリシア建築と古代ローマ建築への関心は次第に2つの理想の建築を相対化していくことになります。
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〇ラ・マドレーヌ
(P・A・ヴィニョン(1763~1828)
パリ 1806~1842年)
本来この地には教会堂の計画がありましたが、ナポレオンによって栄光の神殿が建設されました。1806年設計競技でヴィニョンによるナポレオン好みの高い基壇をもつ壮大な古代ローマ風のコリント式周柱式神殿案が採用となります。現在はラ・マドレーヌ教会堂となっています。
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〇ラ・マドレーヌ 内観

〇エトワール凱旋門
(J・F・シャルグラン(1739~1811)
パリ 1806~1836年)
シャルグランは、ナポレオン1世がオーストリア・ロシアにおいて戦勝したことを記念し、ローマ皇帝が好んだ凱旋門を設計、巨大性においてローマをしのぐ記念門が完成します。
【グリーク・リヴァイヴァル】
ギリシアを理想と仰ぐヴィンケルマンやロージエの理論はギリシア建築を優位に導き、正統なギリシア建築を忠実に再現するグリーク・リヴァイヴァルへと展開します。とりわけ英国、ドイツでは熱狂的な広まりを見せました。
18世紀初頭、すでに英国ではバロック批判からパッラーディオの建築と呼ばれる古典主義への動向が見られましたが、18世紀半ば以降、ギリシア建築への正確な理解が深まるとともにパッラーディオ主義は新古典主義にその立場を譲ることになります。ここに正面を古代ギリシアのオーダーの再現による列柱で飾られた大英博物館の登場を見ます。
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〇大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)
(R・スマーク(1780~1867) ロンドン 1824~1847年)
正面中央のポーチから左右に張り出した翼部を含め、合計44本のアテネのエレクテイオンでのオーダーに倣ったイオニア式列柱が並びます。ファサードの列柱にシンケルのアルテス・ムゼウムからの影響が指摘されますが、考古学的に古代ギリシア建築の構成を試みたスマークの傑作です。
(写真:英国ニュースダイジェストより)

〇大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)外観
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〇大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)航空写真
(写真:大英博物館HPより)
HP:https://www.britishmuseum.org/
一方ドイツではギリシア建築の崇高で厳格な表現を新興国家の象徴的表現のために駆使した建築家
K・F・シンケル(1781~1841年)が、単に復興に留まらない合理的論理に従った代表作アルテス・ムゼウムを誕生させます。
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〇アルテス・ムゼウム
(K・F・シンケル ベルリン 1824~1828年)
アルテス・ムゼウム(旧美術館)とは新館ノイエス・ムゼウムに対する名称です。美術館の正面はギリシアのストアを模したイオニア式列柱によって飾られ、建物中央部にはローマのパンテオンを彷彿とさせる円形ドームが架かります。
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〇アルテス・ムゼウム 内部
ドイツにおいて、フリードリヒ・ヴァインブレンナー(1766~1826年)は、カールスルーエの幹線道路に町並みを作り上げました。とくに、市庁舎(1805~1825年)と新教会教会堂(1807~1816年)およびカール・ヴィルヘルム公の墓所であるピラミッド(1823年)で形成されるマルクトプラッツは、この時代の新古典主義の興味深いアンサンブルといえます。
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〇マルクト・プラッツ
(フリードリヒ・ヴァインブレンナー
カールスルーエ 1824~1828年)
(写真:4travelより)
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〇カールスルーエ市庁舎
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〇カールスルーエ ピラミッド
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〇カールスルーエ城(州立博物館)とカールヴィルヘルム像
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〇ブランデンブルク門
(C・G・ラングハンス(1732~1808年)
ベルリン 1789~1791年)
王宮と市中心地区への入口に建つ、ドリス式円柱のアテネのプロピュライアを範とした古代ギリシア建築の復興によるドイツ新古典主義における初期作品です。ラングハンスの設計によります。
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〇ブランデンブルク門 クアトリガ
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新古典主義建築は、革命建築家へと続きます。
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