西洋建築史 近世1 ルネサンス建築 その幕開け~盛期まで

雑記・建築旅
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【はじめに】
 西洋建築史 近世では、次の4つのテーマ「ルネサンス建築」、「バロック建築」、「新古典主義建築」、「歴史主義建築」をご紹介したいと思います。
 西洋建築史における近世は、人間中心主義と古代ローマの再生、この二つによって幕が切られます。
人間を価値体系の中心に据え、古代ローマ建築をモデルとして、そこに建築の理想・原理・規範を求めてローマ建築の建築言語で建築を構成する古典主義の系譜が、ルネサンス以降の近世のメイン・ストリームとなります。しかしこの系譜に、バロックのような反古典主義的色彩の強い様式も交錯して、建築の近世はダイナミックな顔を見せます。特に近世の最後19世紀には、ゴシックのような非古典系の様式も再生し、さらにはあらゆる過去の様式も再現され、歴史主義と呼ばれる様相を見せ、古典を軸にして来た近世が崩壊現象を見せるようになります。

 その中で、このコンテンツでは主にイタリアルネサンスの建築を通して、その幕開け~盛夏と黄昏までを取り上げていきたいと思います。

(引用元:学芸出版社『図説 建築の歴史』/美術出版社『カラー版 西洋建築様式史』)


【再生される古代―ルネサンス建築Ⅰ】

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〇サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
(F・ブルネッレスキ フィレンツェ 1296~1461年)
 
 ルネサンスがヨーロッパ近世の幕を開けます。15世紀のフィレンツェでは、メディチ家に代表される富裕な商人たちが次第に政治的な権力を握るようになり、その一方で芸術家のパトロンとなって新しい文化の形成に貢献します。そしてそれは、かつて芸術がその頂点を極めた古代の「再生」を通じて成し遂げられることになります。
「ルネサンス」とはフランス語で「再生」を意味します。

〇フィリッポ・ブルネッレスキ(1377~1446年)
(写真引用元:ウィキペディアより)

 1418年、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の中央ドームの架構法を募る設計競技が開催されました。この大聖堂は、イタリア最大の商業都市フィレンツェの聖俗のシンボルとしてすでに13世紀末には建設が始められていました。ただし多くの人々は、古代のパンテオンを凌駕する未完の大ドームの建設については不可能であるとすら考えていました。当時の建築界におけるこの最大の難問に対し、古代建築の研究を通じた独創的な解法を提案した人物こそがF・ブルネッレスキその人でした。この大ドームの建設は、中世のアノニマスな職人ではなく、知的・文化的価値の創造者として目覚めた「建築家」によってのみ可能なものでした。この意味でフィレンツェの大聖堂は、ルネサンスの始まりを告げる建築と言われています。
ブルネッレスキはまた、「透視図法(パース)」の発明者であったとも言われています。

〇サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 西側外観
(写真引用:ウィキペディアより)

〇サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 大聖堂ドーム

〇サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 内部空間

【ルネサンスの建築的課題】
 この時代の建築家に注文される建築は、神殿や浴場といった古代にもあった建物ではありませんでした。必要とされたのは、キリスト教の教会であり、「パラッツォ」と呼ばれる都市建築であり、ヴィッラと呼ばれる郊外の別荘や荘園の中心となる邸宅でした。規模も形態も用途も全く古代とは異なる建築です。

〇パラッツォ・ルチェライ
(L・B・アルベルティ フィレンツェ 1446~1451年)

パラッツォは、イタリアの都市部に建つ富裕な市民の大邸宅のことです。加えて、宮殿、庁舎などにもこの語が用いられます。15世紀に経済としとして発展したフィレンツェでは、商人は生活と仕事の機能を併せ持った都市住宅パラッツォに住むことを好みました。ルネサンスにおいて都市住宅は、教会堂と並ぶ重要な建築的課題となったのです。

【イタリア・ルネサンスの盛夏と黄昏】
 16世紀の初め、ルネサンスの舞台はローマへと移ります。教皇という「権力」を新しいパトロンとしたルネサンス建築は、直接古代の遺構に触れ、より正確な古代の再生へと向かいます。しかしこの盛期ルネサンスの時代は長くは続かず、ローマの荒廃によってその中心を失ったルネサンスは、完成された様式からの逸脱をも包摂するマニエリスムとよばれるその最終局面へと向かいます。

〇サン・ピエトロ・イン・モントーリオ教会 テンピエットと教会外観
(D・ブラマンテ ローマ 1502~1510年)

 1506年、時の教皇ユリウス2世は中断されていたサン・ピエトロ大聖堂の再建を決断し、D・ブラマンテ(1444~1514年)をその総監督に任じました。この事業に象徴されるように、アヴィニョン捕囚後歴代の教皇は、栄光の都ローマの再生を通じて、ローマ・カトリック教会の威信高揚を図ります。こうして教皇の都ローマは、多くの創造的な才能を吸引し、盛期ルネサンスの舞台となります。芸術の新しいパトロンとなった教皇は、古代ローマ皇帝に比すべき自らの至高の権威を示す装置としての役割を建築に担わせます。すなわちそこには、「力」の表現が求められました。必然として建築家は、それまで以上に範としての古代ローマの表現へと向かい、ローマに散在する古代遺跡を通じて、より正確な古典古代の建築言語を獲得していくことになります。
ブラマンテによるテンピエットは、同時代の建築家が建築の理想的範例と考えていた円堂形式が、純正なドリス式オーダーと単純明快な比例構成の採用によって達成されていることから、古典様式の理想が凝縮された、盛期ルネサンス建築の完成形の一つと称されます。

〇ドナート・ブラマンテ(1444~1514年)
(写真引用元:ウィキペディアより)

【マニエリスムについて】
 1527年、俗に言う「ローマの略奪(※)」の蛮行によって、盛期ルネサンスの短い隆盛に幕が引かれます。ただし、この黄金時代に活躍したブラマンテに代表される建築家たちは、既に古典主義建築の典範を完成させていました。そのため、続く世代にとって為すべきことは、この神のごとき美の創造者の様式と手法(マニエラ)を学び、それを積極的、あるいは批判的に自らの作品に取り入れることでした。また、このような造形理念は、芸術の目的の変化によって正当化されました。すなわち、ローマの荒廃によってこの教皇の都を離れた芸術家は、各地の宮廷に仕える者もを多く、そのパトロンが求めたものは、無知な民衆ではなく、教養を備えた者のみが理解し得る芸術だったのです。それゆえ、古典古代の建築や巨匠の作品からの引用、「典範」からの恣意的な逸脱は、知的な操作としてかれらを悦ばせました。マニエリスムの代表的建築家の一人、A・パッラーディオ(1508~1580年)は、盛期ルネサンスの作品を消化し、比例と調和に関するウィトルウィウスの理論に倣いつつ、その独自の解釈に基づく古代の再生を試みたことで知られています。

(※)1527年5月神聖ローマ皇帝スペインカール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領ローマ殺戮破壊強奪強姦などを行った事件を指します。
(ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%8A%AB%E6%8E%A0

〇アンドレ―ア・パッラーディオ(1508~1580年)
(写真引用元:ウィキペディアより)

〇ヴィラ・アルメリコ・カプラ(ヴィラ・ロトンダ)
(A・パッラーディオ ヴィチェンツァ 1567~1570年)
所有者の名からヴィラ・カプラとも呼ばれるこの別荘的性格を有する邸宅は、ヴィチェンツァ郊外の田園を見下ろす小高い丘の上に建ちます。

〇ヴィラ・アルメリコ・カプラファサード

〇カンピドリオ広場
(ミケランジェロ・B ローマ 1536~1655年)
この広場は、古代において最も信仰を集めた神殿が建っていたカンピドリオの丘に計画されました。そもそも約80度の角度をなして二つの建物が配されていたことを生かし、ミケランジェロは広場を大毛糸することで、透視図法的な効果を高め、さらには、統合された意匠を施すことで一体となった全体は、動的緊張感をはらんだ舞台装置として機能しています。また広場に面した建物のファサード上では、「巨大オーダー」と呼ばれる2層を貫くピラスターが強い垂直性を生み出しています。広場の舗装に浮かび上がる楕円形は、次代のバロックを予感させます。

イタリアで開花、成熟したルネサンスは、16世紀以降様々なプロセスを辿ってヨーロッパ諸国へと電波していきます。ただしそこに、「再生」すべき古代は存在しませんでした。彼らは、直接古代を再生したのではなく、イタリアにおいて再生された古代を参照したのでした。このようにして移植されたルネサンスは、それぞれの地域にねづいた造形的伝統と交わり、個性豊かな建築を生み出していくことになります。

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