(出典・引用:三省堂図解ライブラリー 『中世の大聖堂』)
【職人たち~職人の一日】
何百年もかけてつくられた中世の大聖堂は、その時代の民衆の共同の手づくりの作品です。なかでも職人たちの集団が果たした役割が非常に大きいものでした。まちごとに職人たちは同業者組合(「ギルド」あるいは「ミステリー」と呼ぶ)をつくっており、総出で大聖堂の建設にあたりながら、新しい技術を研究し、何代にもおよぶ工事にそなえて弟子たちの教育をし、お互いに助け合っていました。これらの組合の代表が市議会の議員になり、都市を運営したのです。
大聖堂を計画しその建設に責任をもつ人―現代の建築家や技師にあたる―は、主として経験をつんだ石工の親方や大工の親方などの中から選ばれました(中世には「建築家」という呼び方はありませんでした)。これらの建築家たちは、いったん名をあげるとヨーロッパ中からひっぱりだことなり、王宮にも出入りを許されたり、高い身分の貴族などと同格に扱われたりしたほどでした。(後略)
シャルトル大聖堂(1145年 フランス)
(写真等引用:ウィキペディアよりhttps://worldheritagesite.xyz/durham/)
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ロマネスク様式を基礎とする新しい大聖堂の建築が始まったのは1145年であったが、1194年の大火事で町全体と聖堂の西側前方部分以外が焼き尽くされたため、この残った部分のみ初期ゴシック様式となった。大聖堂本体の再建は1194年から1220年の間に行われ、中世の大聖堂としては著しく短期間で完成へと至った。
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【職人たち】
大聖堂建築に何代にもわたってたずさわってきた建築職人たちのご紹介です。
建築家や石工の親方などが、建物の計画をつくり、監督しました。
人夫が車やはしけから石を建設現場へ運びました。
石切り工の親方がそれぞれの目的に合わせ、いちばんいい石を選びました。
石材仕上げ工が石をきり大まかな形に仕上げて彫刻家にまわします。
彫刻家は聖人や聖書のなかの登場人物のすがたを彫像にして大聖堂を飾ります。
石をつぎ合わせるときにはモルタルを使い、これは砂と生石灰、水を混ぜたもので、これらをへらを使って混ぜます。
石彫り工が石を削って窓枠や出入口、アーチなどに用いる美しく精巧な形に仕上げます。
大工が丈夫な型枠で工事中に窓やアーチを支えるものを作ります。ほとんどの大聖堂は屋根も木造で、太いオーク材をつなぎ梁や垂木などに用いていました。
鍛冶屋が建設用の工具を修理したり研ぎなおしたりしまし、また鉄細工の装飾などもつくりました。
鉛工が大聖堂の屋根に鉛板をかぶせ、防水のための覆いをつくりました。
ガラス吹き工が手作りのガラスから大聖堂の窓を作ります。
ステンド・グラス工が色ガラスの窓の意匠を決め、作り上げます。
【職人の一日】
大聖堂に関わる職人のうちで、大工の一日をご紹介します。
午前6時
(まだ暗い)起きて手と顔を洗い、服を着ます。
午前6時30分
家族と朝食をとります。パン、チーズ、スキム・ミルク(クリームを抜いた牛乳)、エール(弱いビール)、あるいはリンゴ酒。
午前7時(日の出)
町のなかの大聖堂建設現場に出かけます。
午前7時30分
大工棟梁から仕事の命令を受けます。
材木をとりにやらされます。
午前9時
材木置場から彫刻につかうオークの材木を運んで戻ります。
午前10時
ごちそう。肉のパイ、パンケーキ、エール、これらは料理番の棚からもらってきました。
午前10時30分
仕事にもどります。
材木を出入口の枠に仕上げる仕事を始めます。
午後2時
大聖堂の内陣に置く長椅子を運ぶ手伝いに呼ばれました。長椅子は現場の仕事場で彫刻がほどこされ仕上がって、いつでも運べるようになっていました。
午後4時
長椅子は所定位置に収まりました。大工は長椅子を寄付した人からお礼を言われました。
午後6時(夕暮れどき)
道具をまとめ、仕事場に入れて鍵をかけます。
午後6時30分
家に帰り夕食。干し豆のスープ、パン、エール。家族うわさばなしやニュースなどを聞きます。
午後7時30分
家のそとで騒ぎが持ち上がる。近くの家から泥棒が逃げたようです。
服や、白銅製の皿などが盗まれました。みんながかけだして泥棒を捕まえようとしましたが捕まらず、泥棒たちは暗い路地のなかに消えてしまいました。
午後9時30分
近所の人が訪れます。夜警が泥棒を現行犯で捕まえたことを知らせてくれました。
大工のおかみさんも一日中忙しく働いていました。料理、掃除、買物、洗濯、着物のつくろい、上等のリネンの糸をつむいで売る、などの仕事がありました。
【中世の大聖堂と都市の人々】
中世の大聖堂の建設には何百年もの年月がかかるかもしれず、だからそこで働く人々の集団すべてが大聖堂が建てられるまちの中に住みついていました。彼らはそこにいれば仕事にありつけるはずだし、また、おそらく自分の子供たちや孫たちの代にも仕事があることも知っていました。中世の職人たちは日の出から日没まで働きました。これは夏になると労働時間が長くなることを意味します。しかし当時の労働者には、現代よりたくさんの休日があり、宗教的祝日や聖人の祭日、伝統的なお祭りなどがありました。そして多くの場合、それらのお祭りの主役をつとめたのが職人たちだったのです。
職人たちは全部が全部、一生懸命働いていたわけではありません。しばしば建設現場の監督は怠けや欠勤が多いのをこぼしています。大聖堂の建設現場にはたくさんのさまざまな種類の労働者たちが参加していました。いちばん低い地位には技能を持たない労務者がおり、その上の位になるのは、さまざまな修行中の徒弟や少年たちでした。徒弟は職人の親方の家に住み込み、その手伝いをする代わりに技能を教え込まれました。
徒弟修業の期間が終わると、かれらは渡り職人となり、日給で雇われるか、あるいは何か一つの仕事を丹念に責任をもってやり終えるごとにお金をもらったりするのでした。特に腕のいい渡り職人で、しかも組合に参加するための高い入会金を払うことのできるものだけが、親方になって町に自分の工房を開き、弟子をとることができたのです。
(写真引用:Gettyimages.comより)
https://www.gettyimages.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82
当時の建築の請負は、建築家(現在のような建築設計者のような人)と、石工の棟梁が中心となって計画をし、職人をまとめて仕事を進めていたようです。
写真にあるシャルトル大聖堂のように、修繕ではあるものの著しい短期間で施工しているものもあったようですが、たいていの大聖堂建築は都市の人々が何世代にも渡って建設を進めていき、数世紀にわたって完成をみたものが多いようです。スペイン、バルセロナの「サグラダファミリア」のように、現在も建築を続けている、といったものが、大聖堂の建築における典型なのかもしれません。
次回は、大聖堂に秘められたまちの人々のおもいをどのように建築として反映していったのか、その形を追ってみたいともいます。
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