【はじめに】
西洋建築史 近世では、次の4つのテーマ「ルネサンス建築」、「バロック建築」、「新古典主義建築」、「歴史主義建築」をご紹介したいと思います。
西洋建築史における近世は、人間中心主義と古代ローマの再生、この二つによって幕が切られます。
人間を価値体系の中心に据え、古代ローマ建築をモデルとして、そこに建築の理想・原理・規範を求めてローマ建築の建築言語で建築を構成する古典主義の系譜が、ルネサンス以降の近世のメイン・ストリームとなります。しかしこの系譜に、バロックのような反古典主義的色彩の強い様式も交錯して、建築の近世はダイナミックな顔を見せます。特に近世の最後19世紀には、ゴシックのような非古典系の様式も再生し、さらにはあらゆる過去の様式も再現され、歴史主義と呼ばれる様相を見せ、古典を軸にして来た近世が崩壊現象を見せるようになります。
このコンテンツでは、建築史における近世の締めくくりとして19世紀以降の歴史主義建築について取り上げます。
新古典主義における古代ギリシアと古代ローマの相対化によって唯一無二の理想建築を失うと、19世紀以降、次第に古代ギリシアと古代ローマだけでなく、ゴシックやルネサンス、バロックなど過去の建築様式すべての中に建築のモデルを見いだそうとするようになります。過去様式の模倣に基づいた建築様式を歴史主義の建築といいます。遠い過去の時代や異国の文化にあこがれるロマン主義的な心情は、ピクチュアレスクの建築思潮として現れ、ゴシック・リヴァイヴァルや折衷主義の起源となります。
(引用元:学芸出版社『図説 建築の歴史』/美術出版社『カラー版 西洋建築様式史』)
(写真引用:ウィキペディア)
【ピクチュアレスク】
ピクチュアレスクとは、「画趣に富んだ、絵のように美しい」という意味の言葉で、英国に始まる絵になる風景を高く評価する思潮を指します。絵になる風景とは、英国貴族の子弟が大陸へのグランド・ツアーから帰国の際に持ち帰った17世紀イタリアの風景画家クロード・ロラン(1600~1682年※)らが描く古代の理想郷アルカディアの世界でした。
※クロード・ロラン
クロード・ロラン(Claude of Lorraine)は、17世紀の画家です。カンパーニャを愛し、牧歌的な情景を描き続けたことで知られています。クロード・ロランは自然を探求し、理想風景画の基盤を築いた画家として知られています。(AIによる)
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〇村の祭り
(C・ロラン 1639年)
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〇シバ女王の乗船
(C・ロラン 1648年)
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〇アキスとガラテイアのいる風景
(C・ロラン 1657年)
建築的には建物とそのまわりも含めて絵画的に構成する手法をいいます。ロランらの絵に描かれた風景を自然の中に求める姿勢から、当時主流であったフランス式の規則的な整形庭園に対して、不規則で不整形な風景式庭園(英国式庭園)が確立されていきます。当初は左右対称な古典的な均整美をもつパッラーディオ主義の建物が風景式庭園と組み合わされていましたが、次第により自然で不整形な変化に富んだスカイラインをもったゴシック建築や城郭風、田舎家風の建物が好まれるようになります。中世城郭に似せたストロウベリ・ヒルに見られるこうした傾向は、ピクチュアレスク・ゴシックと呼ばれ、18世紀におけるゴシック・リヴァイヴァルと見ることもできますが、むしろロマン主義的で、決してゴシックの考古学的理解によるものではありませんでした。
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〇ストロウベリ・ヒル
(H・ウォルポール(1717~1797年) ツィッケナム、英国 1749~1792年)
著述家ウォルポールの監督のもと幾人もの建築家が設計を担当。ウォルポール自身のゴシック小説の空間を具現化した城郭風の居館で、ロマン主義的な中世建築をロココ風に自由にアレンジしたものでしたが、当時の人々に中世への興味を抱かせることになりました。
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〇プチ・トリアノンの「小村落」 アモー
(H・ロベール(1733~1808年)、R・ミーク(1728~94年) ヴェルサイユ 1782~1786年)
風景画家ロベールとミークはマリー・アントワネット(1755~93年)と宮廷婦人のためにヴェルサイユ宮殿の一画プチ・トリアノンの人工池のほとりにノルマンディ風の田舎家を並べた農村風景を創出します。フランスにおけるピクチュアレスクの早期の例です。
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〇プチ・トリアノンの「小村落」 愛の神殿
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〇プチ・トリアノンの「小村落」 王妃の村里
(写真:FRANCE旅時間より)
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〇ロイヤル・パヴィリオン
(J・ナッシュ(1752~1835年) ブライトン 英国 1815~1821年)
登用後間もないお抱え建築家のナッシュは、摂政時代のジョージ4世のためにインドのイスラム様式を基調としたピクチュアレスクな離宮を完成させました。室内には支那風の装飾も取り入れ、異国情緒あふれる多彩で華麗な宮殿に仕上げています。
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〇ロイヤル・パヴィリオン ロングギャラリー
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〇ロイヤル・パヴィリオン 宴会室
【ゴシック・リヴァイヴァル】
ストロウベリ・ヒル以降中世ゴシックが流行となっていく中、古代建築同様、中世ゴシック建築の考古学的研究がすすめられます。T・リックマン(1776~1841年)をはじめ、研究成果をまとめたゴシック様式に関する多くの建築書が出版されました。歴史主義が盛んであった英国において特にゴシック様式に注目した傾向が強まります。これをヴィクトリア女王治世下からヴィクトリアン・ゴシックと呼びます。A・W・N・ピュージン(1812~1852年)は中世キリスト教社会を理想とするがゆえに中世建築としてのゴシックの正当性を説き、ゴシック・リヴァイヴァルに貢献します。著書『対比』(1836年)で中世の都市と19世紀の都市と対比し、いかに中世都市が卓越しているかを示したピュージンは、英国国会議事堂でのゴシック様式による装飾で名をあげることなります。
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〇英国国会議事堂
(C・バリー(1795~1860年)、A・W・N・ピュージン ロンドン 1860~1860年代)
正式名ウェストミンスター宮殿。
1834年の火災によって焼失した旧宮殿のため翌年ゴシック様式またはエリザベス1世(在位1558~1603年)時代の様式であるエリザベス様式という条件で行われた設計競技にバリー案が採用されました。古典主義者のバリーはピュージンの協力を得てゴシック様式の装飾にまとめました。火災防止のため梁および屋根には鉄が使用されました。
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〇英国国会議事堂 ロビー
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〇英国国会議事堂 外観
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〇王立裁判所
(G・E・ストリート(1824~1881年) ロンドン 1874~1882年)
裁判所の設計競技に参加したストリートは、ゴシック案で勝利を得ました。英国でのゴシックリヴァイヴァルの最後を飾る公共建築であり、ストリートの遺作となった作品です。ストリートの下からはP・ウェブ、R・N・ショウ、W・モリスらが輩出します。
フランスでは革命以降、破壊の憂き目にあった中世建築物の修復を通してゴシック建築の合理性を解明したE=E・ヴィオレ=ル=デュク(1814~1879年)の功績が大きかったです。著書『建築講話』(1863~1872年)に示された構造合理主義は近代建築の成立にも及びます。ゴシックの復興は教会堂のみならず、あらゆる建物類型に適用され、ヨーロッパは言うに及ばず、北米にも波及しその作例を見ることができます。
【過去様式の多様化】
建築家たちの非ヨーロッパ建築の様式も含め、過去の様式を自由に選択して組み合わせる態度を折衷主義といい、歴史主義の一様子と言えます。19世紀半ば以降、歴史主義も折衷主義も多彩な様子を見せます。過去様式を自由に組み合わせる折衷様式によって多様な建築形態が編み出されます。これらにある意味で節操を欠く様式を選択あるいは折衷する姿勢への批判から、近代建築が生まれてくることになります。
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〇国立図書館
(H・ラブルースト(1801~1875年) パリ 1862~1868年)
細い鉄の柱で支えられた中央にトップライトをもつ9つのガラスのドームが閲覧室の天井を覆います。鉄とガラスという新しい材料によってクラシックな造形美を達成しています。
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〇国立図書館 内部

〇オペラ座
(Ch・ガルニエ(1825~1898年) パリ 1861~1874年)
オースマンのパリ改造計画の一環としての1861年オペラ座の設計競技に入賞を果たしたガルニエは、スゴンタンピールで壮麗な作品を残します。彫刻で飾られた1階アーケード、高さ10mの16本のコリント式大円柱とブロンズの柱頭をもつ小円柱からなる2階コロネードのファサードをオペラ座広場に向けて建ちます。

〇オペラ座 ガルニエ宮の舞台
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〇ニュー・スコットランド・ヤード
(R・N・ショウ(1831~1912年) ロンドン 1887~1888年)
ショウ設計によるロンドン警視庁の建物。1・2階を石造、3階から上を煉瓦造とし、細部に中世城郭風のものやバロック様式などを自由に組み合わせて重厚な雰囲気に仕上げています。
19世紀後半を迎えるころフランスではネオ・バロックの隆盛を迎えます。ですが、単なるリヴァイヴァルではなく、自国の建築による様式を生み出します。ナポレオン3世の第二帝政期(1852~1870年)に壮麗なバロック様式の再来を見るスゴンタンピール(第二帝政式)の出現です。第二帝政式は国家的な威信を表現するに相応しいとして帝国主義時代のただ中にあったヨーロッパ各国に瞬く間に波及しました。各国の文化や伝統との折衷による様式の多様化は、次第に様式としての規範を喪失させていくことになります。
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