西洋建築史 近世4 新古典主義建築2 革命建築家

雑記・建築旅

【はじめに】
 西洋建築史 近世では、次の4つのテーマ「ルネサンス建築」、「バロック建築」、「新古典主義建築」、「歴史主義建築」をご紹介したいと思います。
 西洋建築史における近世は、人間中心主義と古代ローマの再生、この二つによって幕が切られます。
人間を価値体系の中心に据え、古代ローマ建築をモデルとして、そこに建築の理想・原理・規範を求めてローマ建築の建築言語で建築を構成する古典主義の系譜が、ルネサンス以降の近世のメイン・ストリームとなります。しかしこの系譜に、バロックのような反古典主義的色彩の強い様式も交錯して、建築の近世はダイナミックな顔を見せます。特に近世の最後19世紀には、ゴシックのような非古典系の様式も再生し、さらにはあらゆる過去の様式も再現され、歴史主義と呼ばれる様相を見せ、古典を軸にして来た近世が崩壊現象を見せるようになります。

 その中で、このコンテンツでは18世紀から19世紀に起こったもう一つの傾向、「古典の合理的解釈」と、革命建築家について取り上げます。
 新古典主義には2つの傾向が見られました。ひとつは考古学的に古典建築を理解するもの(前コンテンツでご紹介)であり、もうひとつはギリシア建築に建築の原型を見るロージエの理論から展開される、理知主義的な古典建築の合理的な解釈です。新古典主義の解釈の相違から、考古学的解釈による古代建築を正確に再現する建築とは空間構成が全く異なります。建築とは何かという問いに対して、建築の原型を球形や立方体など単純な幾何学形態に求めることでその答えを見いだすことになります。

(引用元:学芸出版社『図説 建築の歴史』/美術出版社『カラー版 西洋建築様式史』)
(写真引用:ウィキペディア)

〇ニュートン記念堂設計案
(E・L・ブレ― 1784~1785年)
昼間は球殻に穿たれた多数の穴を通過する光が星のごとく輝き夜のように、夜間は照明によって昼間のごとく、球体内部の昼夜を逆転させた構想でしたが、当時の技術力では実現は不可能でした。

〇オペラ座計画案
(E・L・ブレ― )

〇ショーの王立製塩所監督官館
(C・N・ルドゥー アルク=エ=スナン、フランス
 1773~1779年)
楕円形広場の中心に製塩所、その周囲に従業員施設を同心円状に配置したショーの理想都市は、ルドゥーによって古典的形態を単純な幾何学形態に置き換えた理想的な都市として計画されたものでしたが、監督官の館を含む一部が完成したにすぎませんでした。

【革命建築家の登場】
 科学の発展に伴い、理知的であることが求められる啓蒙思想の影響と相まってロージエのいう建築の原型が示すもっとも単純で原始的な形態を理想と見なす古典建築への理解は、より合理的な純粋形態を追求する革命建築家と呼ばれる人々を世に送り出すことになります。こうした思弁的に建築の原型を追求する建築家たちは、理性的な人間のための理想的な建築を想像力豊かに描き出しました。
建物の原型に相応しい形態として古典的モチーフの簡素化や単純な幾何学形態を多用することで厳格さを表現しようとしますが、当時の建築技術では実現不可能な形態や巨大なスケールが特徴的で、幻想の建築と呼ばれる所以です。
 フランスのE・L・ブレ―(1728~1799年)やC-N・ルドゥー(1736~1806年)は、その代表的な建築家です。ブレーは実作には恵まれませんでしたが、奇抜な構想の幻想的計画を多数手掛けました。とりわけ物理学者ニュートンの功績を讃える直径150mにも及ぶ巨大な球形の完成形に着目した記念堂案は、宇宙に着想を得た抽象的な建築ですが、壮大な古代建築のマッスを想起させる作品といえます。

〇グリッド・プランによる平面設計法
(J・N・L・デュラン『建築教程』1802~1805年)

建築理論家J・N・L・デュラン(1760~1834年)の影響は計り知れません。ブレーの弟子であったデュランは、対称性と規則性を強調した古典主義建築を合理的に設計する手法を打ち立てました。それは建物の機能への適合性と経済性を追求するためのグリッド・プランによる平面構成やユニットを規格化し、それを組み合わせて建物を構築していくシステム化された設計手法です。

〇フリードリヒ大王記念堂コンペ案
(F・ジリー 1797年)
基壇の上には考古学的に忠実な再現を果たしたドリス式のギリシア神殿が建ちますが、基壇および門は古典的形態を単純な幾何学形態に置き換えて構成されています。

〇イングランド銀行ホール(J・ソーン ロンドン 1796年)
壁面に窓がなく天窓からの採光によるロトンダと呼ばれるホールは、古典建築を単純化することで厳格な空間を創り出しています。
(写真:まろりーon Xより)

sc-derry2.tif

〇ソーン自邸(J・ソーン ロンドン 1812~1813年)
新古典主義的であったソーンのの作品が、1800年以降ロマン主義的なものへと変化します。中央にトップライトを採り、鏡を点在させたドームをもつ自邸の図書館は個性的空間です。

【革命建築の波及】
 ブレーやルドゥーによって始まった形態の単純化による革命建築は、ドイツや英国にも伝播します。
 ドイツのF・ジリー(1772~1800年)は夭折の建築家であったため、ブレーと同様実施作品は多くなく、計画案にのみ彼を知ることができます。フリードリヒ大王記念堂の計画案にはジリーがフランスを訪れた際に新古典主義に触れたことが知れます。なかでもパルテノン神殿を模したドリス式ギリシア建築が建つ基壇の幾何学的構成にはルドゥーをはじめとする革命建築家からの影響がなかったとは言い難いです。片や、英国でのJ・ソーン(1753~1837年)は実作においてその頭角を現します。イングランド銀行のホールは、ローマのパンテオンを想起される空間ですが、その単純化の手法において革命建築に通じるものがあります。

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