日本人建築家の登場-西洋建築の理解と習熟

雑記・建築旅

【背景】
 幕末以来、西洋建築をさまざまな方法をもって導入してきた日本の建築界でしたが、いよいよ本格的な建築家教育がはじめられ、やがて、西洋建築に習熟した日本人建築家が登場することになります。
明治12年(1879年)、日本における最初の本格的建築家教育機関であった工部大学校造家学科(現在の東京大学建築学部)から、第1期卒業生4人が社会におくりだされました。その4人とは、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、佐立七次郎でした。
(引用元:学芸出版社『図説 建築の歴史』/美術出版社『カラー版 西洋建築様式史』)

辰野金吾(1854-1919年)】
 工部大学校では卒業生のうち最優秀のものを欧米に留学させ、帰国後、後継の育成に当たらせるという方針をとっていました。造家学科の第1期卒業生のなかでその任あたったのが補欠で入学してきた辰野金吾でした。彼はイギリスのロンドンに4年間留学し、明治16年(1883年)帰国後、師であるコンドルにかわって教授となり、その責務をはたすことになります。また辰野は、建築の実作の設計にも精力的にとりくみ、名作を全国に残しました。辰野は日本の建築教育を整備し、また多くの建築作品を残しただけでなく、建設業全体の隆盛に多大な貢献をしました。明治19年(1886年)には造家学会(現在の建築学会)を設立し、会長不在の初代副会長に就任、その重責を担うなど、まさに明治建築界の重鎮となりました。
(引用元共通:西田雅嗣・矢ヶ崎善太郎編『図説 建築の歴史 西洋・日本・近代』
(学芸出版社,2003))

(写真引用元:On Trip JAL HPより)

【辰野金吾 設計の代表的建築 例】

〇東京駅(東京都千代田区 1914年)

 大正3年(1914)竣工した中央停車場は「東京駅」と命名されて開業しました。建築家・辰野金吾の後期の作品に分類されます。赤レンガと白い石材の対比が特徴的なこの建築様式辰野が後期に好んで用いたことから辰野式と称されます。辰野式の源泉は19世紀後半の英国建築家ノーマン・ショウ(1831~1912年)がつくり出したフリー・クラシックと呼ばれる様式で、それはゴシックとクラシックを折衷するところにもとめられます。もちろん辰野が留学中に目にしたものでした。
東京駅はその集大成ともいうべき作品でしたが、戦災で屋根が焼け落ち、現在は当初の壮大さが失われています。
(写真:2023年10月)


〇日本銀行本店(東京都中央区 1896年)

(写真引用元:日本銀行HPより https://www.boj.or.jp/) 

(写真引用元:Wikipediaより)

明治時代における古典主義様式の代表的な建築。ペディメント(三角破風)を用いるなどルネサンス様式を基調としながらも、中央にドームを頂き、コリント式の大オーダーを配することによってバロック的な雰囲気を漂わせています。辰野金吾はこの本店の完成後も工事監督や顧問として各地の同行支店の建築に尽力しました。


〇旧唐津銀行(辰野金吾記念館)(佐賀県唐津市本町)

 辰野の故郷である佐賀県の唐津市(唐津藩)に建つ「旧唐津銀行本店」。この建築は唐津の近代産業を牽引する辰野の同級生、大島小太郎からの依頼によって生まれました。赤レンガに白い石材でラインを入れる辰野式建築らしい外観ですが、実は辰野本人による設計ではありません。
 当時辰野は、建築家としての長年の夢であった東京駅を手掛けている真っ最中で多忙を極めており、この設計を辰野の愛弟子であった田中実に任せたのです。しかし辰野式建築を採用したこの外観を見れば、そのイズムがしっかりと受け継がれていることがわかります。それだけでなく、田中はそこに赤レンガ調のタイルを用いた独自のデザインも取り入れ「建築家 田中実」としての旧唐津銀行本店を造り上げました。それはまさに、次世代がしっかりと育っていることの証でしょう。
(引用元:OnTrip JAL HPより https://ontrip.jal.co.jp/tokyo/17312852

〇大阪市中央公会堂(大阪府大阪市北区中之島 1918年)

(写真引用:SUMUCOTO.COM https://sumukoto.com/

辰野が近代建築の父と称されるのは、その礎を築き、名建築を生み出してきたからだけではありません。師であるコンドル、そしてイギリス留学時代の師ウィリアム・バージェスなどの教えを日本に根付かせるべく、後進の育成にも力を入れてきたことも大きな理由でしょう。それを象徴するのが、この「大阪市中央公会堂」(1918年竣工)です。
(引用元:OnTrip JAL HPより)

〇南天苑(大阪府河内長野市 1918年)

大阪府河内長野市の山あいにある天見温泉。3000坪の日本庭園に囲まれた旅館「南天苑」が営業を始めたのは1949年のことです。大阪府堺市に建てられた東洋一の娯楽施設「潮湯」の別館である「家族湯」をこの地に移築したのが始まりでした。(引用元:OnTrip JAL HPより 写真:日経クロステック)


片山東熊(1854-1917年)】
 片山東熊は卒業後宮内省に入り、宮廷建築家として活躍しました。建築家としては辰野のよきライバル的存在でした。

(写真引用元:Wikipediaより)

【片山東熊 設計の代表的建築 例】

〇赤坂離宮(現・迎賓館 東京都港区 1909年)

(写真引用元:Wikipediaより)

西洋の建築様式習得を目的とした明治時代の建築界にあって、その総決算的な作品です。全体はネオ・バロック様式によりながら、室内にはフランスやエジプトなど各国の様式手法を駆使しています。
日本人の手で欧米にも比肩しうる宮廷建築が実現できたことの意義は大きいといえます。

迎賓館赤坂離宮HP(内閣府) https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/about/


〇東京国立博物館表慶館(東京都台東区 1908年)

(写真:2024年5月)

明治33年(1900)、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念して計画され、明治42年(1909)に開館した、日本ではじめての本格的な美術館です。中央と左右に美しいドーム屋根をいただき、上層部の外壁面には製図用具、工具、楽器などをモチーフにしたレリーフがあります。明治末期の洋風建築を代表する建物として昭和53年(1978)、重要文化財に指定されました。
(引用元:東京国立博物館HP https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=117

曽禰達蔵(1853-1937年)】
 工部大学校でしばらく教鞭をとったあとに三菱に入社、師のコンドルと丸の内のオフィスや煉瓦街の建設などにあたりました。明治41年(1908年)には後輩で欧州留学から帰国したばかりの中條精一郎(1868~1936年)とともに曽禰中條建築事務所を設立しました。

(写真引用元:Wikipediaより
 modern building HP http://modern-building.jp/index.html

【曽禰達三 設計の代表的建築 例】

〇慶應義塾五十周年記念図書館(曽禰中條建築事務所 東京都港区 1912年)

事務所の所長であった中條精一郎が担当しました。最初の構想では古典的な様式で設計されるはずでしたが、非対称で自由な平面計画が先にあって、それにふさわしいゴシック様式が選択されたといわれています。中條の様式の習熟度がいかに高かったかを知ることができる作品です。1928年に増改築がおこなわれていますが、当初からの美しい外観はそのままです。

(慶應義塾大学記念図書館 http://modern-building.jp/sone_tatsuzo.html


〇明治屋(東京都中央区 1908年)

本社である明治屋京橋ビルは中央区指定有形文化財に指定されています。現在、再開発ビル京橋エドグランの一部として保存・活用されています。
(明治屋HP https://www.meidi-ya.co.jp/)


佐立七次郎(1856~1922年)】
 同級生の活躍の陰にかくれて目立ちませんが、水準原点標庫(東京,1891年)は同級生の作品の中で現存する最古の作品です。また、日本郵船小樽支店(1906年)などのすぐれた作品を残しています。

(写真引用元:Wikipediaより)

【佐立七次郎 設計の代表的建築 例】

〇日本水準原点標庫(東京都千代田区 1891年)

日本水準原点(にほんすいじゅんげんてん、英語: Japanese datum of leveling)は、日本の水準測量の基準点(ただし、本土から遠く離れた離島の標高を除く。)です。東京都千代田区永田町1丁目にある日本水準原点標庫(にほんすいじゅんげんてんひょうこ)という建物の中にあります。周囲の附属標石を含め、国の重要文化財でもあります。
(引用元:Wikipeiaより)

〇旧日本郵船小樽支店(北海道小樽市 1906年)

(一般社団法人小樽観光協会HP https://otaru.gr.jp/shop/nipponyusen_otaru

明治37年着工、同39年10月に落成した近世ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築です。
当時の最先端の技術や設備が至るところに感じられる館内には、「小樽の歩みと日本郵船」を
テーマにした海運資料コーナーや国境画定会議資料室、修復資料室など貴重な資料が展示されています。
目の前には船入澗を模した運河公園があります。

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